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ニューヨークにいる友達が、オペラを観にいった、というメールを送ってきました。実にうらやましい。こちらでは、なかなかオペラやクラシックのコンサートに行く機会がないので、無条件にうらやましくて、ついオペラのCDなんか家で聞いてしまいました。
思えばジュネーブにいたころは、ちょこちょこスイスロマンドオーケストラのコンサートにも行ったし、ミラノまで電車でオペラを観にいったこともあったし、、、、。いまさらながら恵まれていたなあーと実感します。
もちろんインドネシアにはインドネシアの音楽や舞踊があるわけですが、どーもヨーロッパでオペラやコンサートにいっていたようには、足繁しく通う気もおこらず、ついそういう文化的活動からは離れてしまっています。
パリに遊びにいっていた友達は、パリで自由きままに散歩したり、オープンカフェでお茶したり、ギャラリーにいったりして、それがこちらに戻ってくるとできないのが、悲しいとぼやいていましたが、まったくその通り。残念ながらこちらでは歩き回れないし、公園も少ないし、オープンカフェでお茶、というような空気でもありません。。。交通量が多すぎて(笑)。
だから、ショッピングモールに大量に人が集まって、そのなかでみんな歩き回ったり、お茶をしたりしているんですが。。。。
確かにこうやっていくつかの国に住む機会があると、比較の視点が身についてしまっているので、ついどこかと比較して、ため息をついてしまうこともあります。いつも暖かいとか物価が安いとか、アパートにプールがついているとかジムがあるとか、そういう日本ではあんまり考えられない長所もあるので、ため息ばかりでもないのですが。。。。
比較の視点があることは幸せなんでしょうか、不幸せなんでしょうか。。。
先輩がいっていましたが、パキスタンやインド、インドネシアでも、たとえばメイドさんの子供として生まれると、メイドさんとして生きることがあたりまえになる、というか、生まれた環境に素直に生きるケースが多いようです。ヒンドゥーの場合はカーストがあるので、よけいその傾向は強まるのでしょうけれど。
外の世界を目のあたりにして、選択できるとしたらそれはそれで幸せなことでしょうけれど、比較の視点、選択の幅が広がると、悩みも増える、という贅沢な悩みもあるように思います。敷かれたレールの上を走ることは、それが苦痛でない以上は、考える苦痛がないので楽といえば楽かもしれませんね。
でも、考える自由がないというのは、それはそれでとても苦痛なことです。
ときどき、人間の一生は宇宙の時間の流れのなかではほんの一瞬であり、でもその一瞬の間に、なぜかりんはこの時代の日本に生まれ、かりんの周囲のひとたちはインドネシアやアメリカに生まれ、それぞれの人生のなかで今この瞬間にかりんと出会う機会があったのかしら??? と思ったりします。
この瞬間に地球に存在している人たちのなかで、ここでこの人に出会うってすごい確率だ、とか。そうやって考えると、相性の良い人とかきの合わない人とか、そういうのがどーでもよくなる、というか、急に視点が高くなって心が広くなる、というか。。。。
オペラが観れないとか、オープンカフェがないとか、そういうのはともかく、生きて、ここにいるだけで、それはすごいことだと思ったりして(ちょっと話が極端ですが)。
スペースシャトルコロンビアの事故のときに、初めてアラブ世界からのクルーとしてシャトルに乗ったという、サウジアラビア(だったかな?)のクルーがインタビューされていましたが、彼が「宇宙から地球をみるというのは、まったく新しい視点を与えてくれる。いつか各国の大統領や首相も宇宙から地球をみるといい」といっていました。自分の領土とか国益とか、そういうところから離れた地球的視点からみるといい、ということだと思います。
日本にうまれようがインドネシアに生まれようが、この瞬間に地球上に存在している事実はかわりません。ならば、みんなが仲良く平和に暮らせるようにするべきだと思うのですが、なかなかうまくいかないものですね。地球規模で考えたら、やっぱり自分だけが自分の国だけがよければいいなんてことをいってられないわけだし。。。。なーんてことを、ちょっとイラクをめぐる議論をおいながら考えてしまいました。
とはいえ、かりんもいつもこんなことを考えているわけではなくて、今日はなにを食べようか、とかここは空気が悪いとか、そんなことでいらいらしているわけですが。。。ちょっと反省している今日このごろです。
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