東大出身生 かりんのひとりごと 過去ログ(VOL42〜43)




その42  記憶力の話 (2001.12.17)

 いきなりですが、皆さんは、ずっとずっと昔にお付き合いしていた人のことや友達のことをよく覚えていますか? 自分の失敗談、例えばすごーく恥ずかしかったこととか、情けなかったこととかはどうですか?

 かりんは、人のこともそうですが、実につまらないことをよく覚えていて(とはいっても、年々記憶力は低下しています)、友達に「昔、あんなことあったよね」と話を振ったところ、相手が覚えてなくてがっくりしたりすることがあります。
 それならまだしも、いまだに高校生のころ、それ以前の自分の失敗談を覚えているものですから、ときどき思い出しては、「あー」といまだに悶えてしまうことがあります。今となっては笑えることも、当時は真剣だったりして、思い出すとそのときのいたたまれなさもよみがえったりして。
 例えば、憧れの先輩と初めてデートらしきことをしたとき、あとで気がついたら、かりんの歯にはなぜか海苔がついてたり(あー)。

 時間の流れはときに「優しく」て、嫌なことも悲しいことも、すこしずつ忘れさせてくれるといいますし、事実そうだと思います。これは自分の意思と無関係なのでしょうか? まさか無関係ということはないでしょうし、事実、覚えていたい、と強く思っていることは色鮮やかに覚えていると思います。でも、不思議なもので、強く覚えていたいと思ってないことも、すりこまれているんですよね(笑)。何かのきっかけで思い出してしまう。。。

 記憶の不思議なところは、たとえ薄れても、完全に消えることは、どうもないらしいということです。 卑近な例ですが、先日大学時代の友人たちと再会する機会が数回ほどありまして、なぜか会うたびに、昔、昔にかりんがお付き合いしたことのある人の話がでて、それまですっかり忘れていたのに(と思っていた、少なくとも)、なんだかいろいろ思い出してしまったのでした。今となっては、「若かったのねー」といった感じですが(苦笑)。

 最近読んだ山本文緒の短編で「ニワトリ」という、話がありました。これは、非常に記憶力の悪い女性の話で、彼女は人との約束は忘れるは、借りたものも忘れるわ、で、人に多大に迷惑をかけているのですが、同時に人からされた嫌なこと、悲しいことも覚えていないので、そこが愛らしくて人に好かれている、という不思議な人です。記憶力が良いのと悪いのと、どっちが良いのでしょうね。

 人は死ぬときに、お金や生前買い集めたもの、友達・家族を連れて行くことはできないし、ひとりで逝くしかありません。そういうとき、「記憶」があれば、少しは寂しくないのかなあ、と思ったりします(死んだら意識がどうなるかは敢えて問いません)。だったら、楽しい記憶が沢山あるにこしたことはないですね。反省はしても後悔のない、豊かな人生をおくり、たくさんの面白おかしい記憶を蓄積したいものです。





その43  期待、そして待つこと。クリスマスによせて。 (2001.12.24)

 何かを期待して、こうなるといいなあ、と思い願うとき、皆さんはそうならなかったとき、期待通りにならなかったときのことも考えますか? どういう精神状態で、その目標の達成なり、夢や希望の実現を待ちますか? (先週に引き続き、質問調で申し訳ありません)。
 かりんの場合、念じる力による自己実現を信じているので、何かを願うとき期待するときは、強くそれを心に描いてそうなる、(もちろん努力も必要)と信じるタイプです。
 でも! ちょっと小心者なので、最悪のシナリオも一応考えて準備しておく姑息な一面もあったりします(笑)。

 思い返せば、中学・高校のころから、テストというと、予想点数を低く見積もって、それより少しでも上だと喜ぶタイプでした。こういうアプローチの問題点は、実際の点が低めに見積もった点数と近かったり、下回ったりした場合、ショックが大きいことです(笑)。

 思うに、自分の力でなんとかなること、例えば、試験勉強、なら、自分が強く念じて努力することによって期待通りの結果をもたらすことは可能ですが、人の動きが関わってくることだと、その実現は非常に難しい。そして、社会で生きていれば、当然、後者(自分の力だけではどうにもならないこと)も増えてきてしまいます。

 かりんには、一年前から「期待」していること、こうなるといいなあ、と強く念じていることがあります。「あともう少し」というところで、なかなか進まず話がこじれて足踏みしている状態になってしまい、非常に焦れています。これもまた、かりん一人の力でどうしようもないことなので、じっと待つしかなく、待つことが大の苦手のかりんには苦しい日々が続きます。

 何事も期待しなければ、無心で待っていれば、焦れることもいらいらすることもないのでしょうけれど、人間、欲があるから、なかなか無心で「待つ」ことは難しいようです(かりんだけ??)。かりんには目標物設定・確認視力(つまり、こうなるといいなあ、とかこうしたい、という方向性を定める力とでもいいますか。欲望設定能力?)はかなりあるらしく(笑)、こうと決めると、その方向に向かって一目散に駆け出すタイプなので、ほんとに「じっと待つ」ことが苦手です(クリスマスプレゼントもクリスマス前に開けたいタイプ)。
 じっと待っていれば、誰か迎えにきてくれて、すんなり目標地点に進めるかもしれないのに、つい、自分で駆け出していって、転んだりすりむいたりして傷だらけになりながら目標地点に行き着く感じ(笑)。
 どちらにせよ、目標地点には行けるので、結果オーライといえばそうですが、最短距離で怪我もせずに行き着けるにこしたことはないですよね。若くないんだし。

 話は飛んで、この原稿が載る日はクリスマスイブ。ご存知のように、クリスマスはキリスト教において大事な日です。救い主イエスキリストがお生まれになった日だからです。クリスマスは誰でも知っていると思いますが、キリスト教では、このクリスマスにいたるまでの一ヶ月を、アドヴェントといい、クリスマスまでの準備期間として重要視していることは意外と知られていないことではないでしょうか? この一ヶ月間の意味はキリスト誕生を、準備して「待つ」ということです。いつ来るともしれない救い主を、目を覚まして、周りに気を配りながらじっと「待つ」、このことの確認期間とでもいいましょうか。

 毎年この時期になると、かりんは苦手な「待つ」ということの大事さを、改めて気づかされるわけです。節足にならず、じっとじっと待つ、フライングして失敗しないように、ひそかに期待しつつ、そのときがいきなり来てもあせったりしないように、努力はしながら、いらいらいしたりしないで、じっとじっと待つ、そのことの大切さ、を。